摂津名所図会・挿絵の旅、御影石運搬の牛車
摂津名所図会・挿絵の旅、今回は御影石運搬の牛車の挿絵である。

挿絵の全体図。御影石の積まれた荷車を牛が曳く。きつそうだ。挿絵には「武庫山より多く石を切り出し御影村より諸国へ商ふ。牛車のちからをもって日々運ぶこと多し。云々。」とある。また、本文には、「名産御影石:武庫の山中より多く出づる。御影村の石工、山に入りて切り出し、云々。昔より切り出すに、山中広くして際限なし。」と、際限なしとあるが、近くの荒神山に始まり、石切り場は石切り道を通して、どんどん奥に行ったと思う。

石切り道を歩くと、今でも石が積まれている。

今でこそ舗装された道路が付いているが、この道は、明治時代以前はなかった(明治時代の地図で確認できる)。当時は、石切り道も荒神山からの道も住吉道につながっていた。

挿絵の牛車の部分を拡大した。このような牛車が住吉道を、水車で精米される酒米等の牛車と一緒に行き来していたのだろう。

住吉山手に、柿の木地蔵と言うお地蔵さまが住吉道沿いにある。左の道が住吉道である。

お地蔵さまの、向かって右後ろに大きな柿の木があることから、柿の木地蔵と呼ばれる。

このお地蔵さま、新しい。というのも、大正10年頃に牛車の御者が、このお地蔵さまに牛を結び付けて休んでいた。突然その牛が暴れ出して、お地蔵さまはたおれ、首のところで折れてしまった。今のお地蔵さまは、その後地元の人々が再建したものである(東灘歴史散歩より)。

説明板をあげる。台座は嘉永六年とあり、1853年になる。

突然の水車であるが、柿の木地蔵の少し南の山田区民会館の横には、昔の水車が再現され、元気に回っている。こういう水車が住吉川の上流に幾つもあったのだ。
摂津名所図会の画像は全て国立国会図書館デジタルコレクションの摂津名所図会・1798(寛政10年)年版の保護期間満了のものを使用。
柿の木地蔵

挿絵の全体図。御影石の積まれた荷車を牛が曳く。きつそうだ。挿絵には「武庫山より多く石を切り出し御影村より諸国へ商ふ。牛車のちからをもって日々運ぶこと多し。云々。」とある。また、本文には、「名産御影石:武庫の山中より多く出づる。御影村の石工、山に入りて切り出し、云々。昔より切り出すに、山中広くして際限なし。」と、際限なしとあるが、近くの荒神山に始まり、石切り場は石切り道を通して、どんどん奥に行ったと思う。

石切り道を歩くと、今でも石が積まれている。

今でこそ舗装された道路が付いているが、この道は、明治時代以前はなかった(明治時代の地図で確認できる)。当時は、石切り道も荒神山からの道も住吉道につながっていた。

挿絵の牛車の部分を拡大した。このような牛車が住吉道を、水車で精米される酒米等の牛車と一緒に行き来していたのだろう。

住吉山手に、柿の木地蔵と言うお地蔵さまが住吉道沿いにある。左の道が住吉道である。

お地蔵さまの、向かって右後ろに大きな柿の木があることから、柿の木地蔵と呼ばれる。

このお地蔵さま、新しい。というのも、大正10年頃に牛車の御者が、このお地蔵さまに牛を結び付けて休んでいた。突然その牛が暴れ出して、お地蔵さまはたおれ、首のところで折れてしまった。今のお地蔵さまは、その後地元の人々が再建したものである(東灘歴史散歩より)。

説明板をあげる。台座は嘉永六年とあり、1853年になる。

突然の水車であるが、柿の木地蔵の少し南の山田区民会館の横には、昔の水車が再現され、元気に回っている。こういう水車が住吉川の上流に幾つもあったのだ。
摂津名所図会の画像は全て国立国会図書館デジタルコレクションの摂津名所図会・1798(寛政10年)年版の保護期間満了のものを使用。
柿の木地蔵
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